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ある老夫婦のもとで。
「アモーレ、コーヒーいれてくれるかい?」
「はい、アモーレ」
「あと、デザートもあるよな、アモーレ」
「今用意するわ」
「あと、くるみもあったよな?アモーレ」
「あるわよ、出しますね、アモーレ」
「ありがとう、アモーレ」
——— 結婚して何年になるんですか?
「40年かな」
——— すごいですね、いまだにアモーレと呼び合っているなんて
「……どんな名前だったか忘れっちまったんだよ!」
ある老夫婦のもとで。
「アモーレ、コーヒーいれてくれるかい?」
「はい、アモーレ」
「あと、デザートもあるよな、アモーレ」
「今用意するわ」
「あと、くるみもあったよな?アモーレ」
「あるわよ、出しますね、アモーレ」
「ありがとう、アモーレ」
——— 結婚して何年になるんですか?
「40年かな」
——— すごいですね、いまだにアモーレと呼び合っているなんて
「……どんな名前だったか忘れっちまったんだよ!」
(ローマの喜劇役者 Gigi Proietti の小話)
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神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(聖書 ヨハネによる福音書3章16節)
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イタリアに限らず欧米その他の国々で、妻を、夫を、また恋人や子供の名前を、「愛」や「宝」などを意味する言葉に置き換えて呼びかける光景をよく目にする。
若いころの僕にとって「愛」という言葉は、小っ恥ずかしいものだった。
また、有るのか無いのかわからない、あやふやな概念だった。
教会に通うようになり、神の愛について語られるのを聞いてもその、誰かのために生命をも捨てるという愛と、それまでの自分にとっての「愛」という言葉とはなかなか結びつかなかった。
ローマに住んでいた頃、感情表現がとてもストレートなイタリア人たちを見、接する中で強く、また身近に愛を体験した。
街中、ベビーカーでぐずり始めた赤ん坊を抱き上げ「どうしたの?アモーレ」とあやす若い夫婦を見た時、この赤ん坊こそ愛の結晶だと。
友人が、本当に仲良さそうな奥さんとかわいらしい子供を「これが愛する家族」とうれしそうに紹介してくれた時、ここに愛があると。
落ち込んでしばらく顔を出さなかった歌の先生のところに久しぶりに会いに行ったらとても心配してくれていて、話を聞いてくれ、同情しなぐさめてくれた時、愛してくれているのだなぁと。
誰かのために、何かのために犠牲を払うこと。
受け入れ、助けること。
ともに喜び、悲しむこと。
語りかけ、話を聞くこと。
ともに時間を過ごすこと。
見守ること。
想いをめぐらせること。
これって愛だ、と、今なら恥ずかしくなく言える。
。
。。
。。。
。。。。
。。。。。
という恥ずかしい思考を、
マイン・シャッツ <私の宝物>(←リンク)
を仙川で観劇した帰りの電車の中でめぐらせた。
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